OUR PHILOSOPHY
美しい自然や風景、そのそばに、
人の豊かなこころ、豊かな生きかたがある。
これが、私たちの仕事が目指す、
真の目的であり、表現への挑戦です。
岐阜造園の仕事が目指すのは、大きな人間性の醸成。
豊かなこころは、人生そのものを豊かにし、
人生の眺めを変えてくれます。
便利さを追い求めた文明の先にあったのは、
進化のいっぽうでなにかが破綻するジレンマ。
利便性を求めるほど、手間暇かける感性を失い、
すべてをコントロールしようとするほど、余裕を失い、
効率を求めるほど、余白を失い、
人間が本来持っている、おおらかなこころは行き場を失い、
常に正解を求められる世の中では、
非合理なものはすべて間違い。
けれども本来、人は、人だからこそ非合理な選択をする。
非合理とは、つまり想定外。
想像を超えた景色に出会った時、人のこころは動く。
それが人間らしさというものです。
この世に、唯一完璧なものがあるならば、
それは「自然」ではないでしょうか。
自然は、美しい。それは、人の手では決して
真似のできないデザインで成立している。
そして、生きとし生けるすべてを過不足なく支える、
完璧なシステム、でもある。
いっぽうでそれは、私たちの
コントロールがきかない存在でもあるのです。
つい、便利さを追い求めることに慣れてしまった私たちにとって、
時に不便なものとして映るでしょう。
でもそこにメッセージがあると捉えてみる。
必要以上の便利は、必要か?
自然の声なき声は、こう語りかけているのかもしれません。
過去の賢人の言葉には、こうあります。
「貧しい人とは、少ししかものを持っていない人ではなく、
もっともっと、と無限に求め続ける人のことだ。」
いきすぎた無限の欲は、私たちが真に求めるものを、
むしろ遠ざけているということです。
人間が真に追い求めているのは、
モノによる満足度ではなく、こころの幸福度。
お金で手に入るものに、さほどの価値はなく、
インスタントな娯楽は、飽きも早い。
こころを満たす人生に必要なものは、
理屈と利便を突き詰める文明にはなく、
もっと別のところにあるのではないか、と。
私たちは、創業以来90 年にわたり、
自然を素材にした造園の技と美を磨き続けてきた企業です。
創業当初の、昭和の初め。
岐阜という地方都市に活性をもたらすため、
岐阜城ふもとの金華山公園を
美しく華やかな姿にする整備改修に着手しました。
中興期にあたる、高度成長期からバブル期。
経済的余裕を象徴する絢爛豪華な庭園やゴルフクラブなど、
人々のステイタスを満たしました。
造園の本質とは、
時代時代の人々のこころが求める美しさを考える文化であり 、空間芸術。
だからこそ思います。
今、文明という効率や機能性の進化の裏側に、
それだけではもう満たされない人がいる。
その渇望は、これ以上高度な便利を手にしても
癒されないのではないか。
幸せのコツは、そのまったく反対の価値観、
つまり、感情や感性、文化的な欲求を満たすことではないか。
生活ではなく、
人生そのものを豊かにすることが必要なのではないか。
美しい自然がもたらしてくれるもの。
木が花を咲かせ、実をつけた。季節の移り変わりに気づく感性。
少しの隙聞もない24 時間に、
水やり 、手入れ、あえての手間暇をかける、時間の余裕。
思い通りにいかないものを受け入れ、そのこと自体を楽しむ、
大きな人間性。
コンクリートのように固いこころに、
感受性という花を咲かせてくれます。
そうしたこころの在りようで見る世界は、きっと素晴らしい景色。
たとえば、
ないものを嘆くよりも、今いるもので楽しむ、そんな景色。
うまくいかないことも、そういうこともあるさ、
と面白がる、そんな景色。
こころの在りかた、捉えかたひとつで、
人生は大きく変わるのです。
そんなこころで見る世の中の景色こそが、
この成熟した世の中における、真の豊かさだと思うのです。
私たちが最も優先すべき品質基準、それは、
その景色は、こころを打つか。この言葉に、集約されます。
美しい自然や風景、そのそばに、
人の豊かなこころ、豊かな生きかた、大きな幸せがある。
これが、私たちの仕事が目指す、
真の目的であり、表現への挑戦でもあるのです。
そして、
やわらかなこころの重なりが、
やがて、しなやかな社会をつくりあげていく。
いい世の中とは、人間らしさに満ちた
こころがあふれる世の中だと、私たちは思うのです。